展示雛人形の解説
はじめに
この雛人形は、福岡・高宮の貝島本家4代目兄弟の第三子 貝島禮子(あやこ)氏の初節句のために注文され、昭和15 年に京都の丸屋 大木平藏が製作したものである。黒の道具に見られる丸にケンカタバミは貝島家の家紋(男紋)、丸にダキオモダカはその女紋である。
貝島家と貝島炭鉱について
貝島家は、麻生・安川とともに「筑豊御三家」と称され、筑豊の地場資本として炭鉱業を興隆させて一時代を画した一族である。貝島炭鉱は、一介の食農の子として生まれ一坑夫としても辛酸をなめた貝島太助氏とその兄弟が、明治18年に福岡県鞍手郡宮田町の地に買い受けた鉱区をもとに 43,000 余坪の増借区を出願して創業したことに始まる。
石炭産業は日本の近代化をエネルギー面から支えた一大基幹産業であったが、宮田町大之浦に始まる貝島炭鉱も、豊富な埋蔵量と優れた炭質などの恵まれた資源条件に加えて、太助氏という旺盛な事業家によって鉱区を拡大させ、近代的な大炭鉱へと飛躍的な発展を遂げた。最盛期には年間出炭量172万トン、一寒村であった宮田町は4万人あまりの人々が生計を立てるまでになり、さながら一都市を形成していたと言う。
然しながら、戦後昭和34年頃からのエネルギー革命(石油エネルギーへの転換)により、日本各地の炭鉱は急速に衰退へと向い、筑豊で最後まで採掘を続けた貝島炭鉱も、最終的に昭和 51年に閉山を余儀なくされている。この間、創業以来の貝島一族が経営した炭鉱の出炭量は累計約1億トンに達する。
高宮貝島本家(貝島嘉蔵家)について
嘉蔵家は太助氏の末弟の家である。貝島一族は9家に分かれるが、太助家を宗家、六太郎・嘉蔵の両家を本家、太助氏の四男太市氏ほか5家を連家として区別した。嘉蔵氏は25歳の時眼病で失明するが、その後も炭鉱現場の第一線で活躍し、他の兄弟二人とともに太助氏の炭鉱経営を支えた人物である。特に従業員の子弟教育に力を注ぎ、明治21年に私立大之浦小学簡易科を設立させたが、これは日本の炭鉱に生まれた最初の小学校である。大正4年嘉蔵氏は家督を養嗣子 健次氏(太助氏の三男)に譲ったが、昭和2年に健次氏が、炭鉱に程近い直方西尾にあった邸宅を福岡高宮に移築し、一家はここに住むようになったため、高宮島本家と称することとなった。
健次氏は明治40年〜42年の間、弟大市氏(昭和6年~38年の間炭鉱会社社長を務めた人物)とともに米欧遊学も経験しているが、大正14年には大阪に貝島乾溜株式会社を設立して貝島鉱業株式会社常務から転じて社長に就任した。この頃は京都の別邸住まいが多くなっていたようである。また、日本画や謡曲を愛し、当時所有していた黒田藩所縁の「友泉亭」(現在福岡市名勝に指定されている)の居間に、松永冠山に泊り込みで 67枚に及ぶ杉戸絵を描かせ、その完成を待って昭和11年に別荘開きを行ったとの記録もある。
健次氏の長男 孝氏(3代目、雛人形の主 禮子氏の父)は京都帝大卒であり、雛人形が製作された昭和15 年当時は 34歳、貝島炭鉱神戸支店勤務にて西宮市森具在の居宅に家族とともに在住するとともに、たびたび京都の別邸に行っていたようである。
当時の健次・孝両氏らの高宮貝島本家はこのような家柄・地縁を持っていたためか、この雛人形は京都の老舗人形店に注文されている。
この雛人形の来歴
この雛人形は、明和年間創業の京都の老舗人形店丸屋(現丸平大木人形店)の五世 大木平藏の手により昭和15年、彼の最晩年につくられたものである。小袿の三人官女、おぼこ(子供) 五人囃子、隋臣、仕丁を揃えた十五人揃の華やかな雛飾りである。また雛道具も、屏風、几帳、八角雪洞、戊筥と優雅な室礼の道具から、前飾り(瓶子、高杯・菱薹、御膳等)はもとより手提重、重箱、三棚(厨子棚、書棚、黒棚)、十三揃(御化粧道具類)、三荷(鐘筒、長持、挟箱)、御籠、御所車に至る家紋散らしの別誂品となっている。
そしてこの雛人形は禮子氏の祖父母(健次氏夫妻)が住む高宮邸に納入され、初節句はここで祝われた。人形セットが大型であるため、高宮邸本座敷(次の間を含め25畳)の大きな床の間でしか飾ることが出来なかったためと思われるが、禮子氏ほか4代目兄弟が幼少期を過ごした西宮宅にセットが送られたことは無かった。
平成15年に至って高宮貝島家は、高宮邸の建物(建坪約 680坪あったもののうち、主要部分約 206坪)を福岡市に寄附するのを期に蔵を整理し、同市総合図書館にこの雛人形を含め多数の書画・什器を預けた。これは寄附した建物ならびにその地所の歴史的価値を生かした緑地公園の開園を待って、これらをその運営に生かすことを期待した措置であった。
しかし市財政の逼迫に伴う当該公園開園計画の度重なる遅延や公園運営方針の不確かさという事態を受けて、禮子氏らは雛人形については早期に展示・活用が出来る適切な場所を別に求め、今般縁あって神戸酒心館に寄贈されることとなったものである。
記 平成21(2009)年3月